tengan さんの家計簿日誌
2021-07-18
今更だと、呆れられるかもしれない。
勿体つけていると、嫌われるかもしれない。
それでも、迷いがあるまま抱かれるのは嫌だった。
「ごめんなさい……」
そもそも、こんなことになるとは思っていなかった。
綺麗ごとでもなんでもなく、本当に、自分が『早坂楽』だと明かす気もなかったし、純粋に、悠久くんの助けになりたいと思った。
私のことなんてとうに忘れていると思っていたし。
だから、彼の口から私の名前が出た時、本当に驚いたし嬉しかった。嬉しすぎて、あの頃の続きを受け入れてしまった。
けれど、あの頃とは違う。
私も、悠久くんも。
義妹の夫である悠久くんと身体を繋げることは、ただの不倫とは違う。
どう転んでも、待っているのは地獄だ。
私は、いい。
どこででも、どうにでも生きていける。
が、悠久くんを道連れには出来ない。
悠久くんのお母さんが彼のためにと遺した人生だ。
私が奪うわけにはいかない。
「楽は……俺が好き?」
私は頷くだけで精いっぱいだった。
「だけど――」
「――不倫は、良くないよな」
寂しそうに言うと、悠久くんが乱れた私のパジャマを直し、微笑んだ。
「萌花と別れるよ」
「え……?」
フッと彼が笑う。
「そんなに驚くこと? 前にも言ったじゃん。間宮悠久に戻ったら、恋人になって欲しいって」
確かに、言われた。
私が早坂楽だと知れる前に。
「気持ちは変わらないよ。俺は――」
悠久くんが私の頬に触れた。
「――楽と一緒に生きたい」
彼の顔がゆっくりと近づく。
私は、目を閉じた。
不倫が嫌だなんてどの口が言ったことか。
唇が重なり、涙が零れた。
幸せだと、思った。
私も悠久くんと一緒に生きたい――。
心からそう思った。
萌花と別れると言った悠久くんは、その日から私に触れなくなった。
抱き寄せてはくれる。が、それ以上はなくなった。
けじめ、なのだと思う。
悠久くんは昼間でも部屋にこもることが多くなった。離婚に向けて色々と準備をしているそう。
詳細は私に聞かせたくないと言っていたので、聞いていない。
「離婚……か」
私は一人、呟いた。
悠久くんの部屋からは、かれこれ一時間以上話し声が聞こえている。内容までは聞こえないが、弁護士さんと話しているらしい。
離婚、して欲しいのかな……。
この家に来てからの目まぐるしい変化に、私は取り残されていた。
悠久くんの言葉を素直に受け取れば、彼は萌花と別れて私との結婚を考えている。
それは、結婚を望むほど愛されるのは、嬉しい。
けれど、現実問題として、出来るのか。
萌花のことだけじゃない。
問題は私にもあるのだから。
こんな身体を見たら――。
悠久くんはまだ、私の身体中に残る傷跡を見たことはない。
私に触れる時は布団に潜っていたから、見えていないはず。
見たら、抱く気になんてならないはず……。
ミミズが這うような傷がいくつもある。
内臓が傷つかなかったのは奇跡だと、医師には言われた。
お母さんが庇ってくれたから……。
私は自分の身体を抱き締めた。
この身体を見たら、離婚を考え直すかもしれない。
そんなことを考えていたら、テーブルの上のスマホが震えた。
修平さんからだった。
彼は両親にも告げずに一人で暮らす私を心配し、時々連絡をくれている。
これまでの私は、メッセージに返事をしても、電話には出なかった。
彼の新たな生活は始まっているから。
なのに、こうして、まずは電話をくれる。それから、メッセージ。
気まぐれに、電話を取る気になった。
ダイニングの椅子から立ち上がり、リビングを出て、〈応答〉をタップした。
「もしもし」
『楽?』
一年振りに聞く、修平さんの声。
「お……お久し振りです……」
『久し振り。元気かい?』
「はい。修平さんは……お元気ですか?」
『ああ……。変わりないよ』
懐かしい、彼の言葉。
変わりない、は修平さんの口癖のようなものだ。
「おばあさまの三回忌は、滞りなく終えられましたか?」
『そんな風に呼んでは、お祖母さんが悲しむよ? きみに『おばあちゃん』と呼ばれることを、とても喜んでいたからね』
おばあちゃんを思い出すと、胸が痛む。鼻の奥がツンとして、涙が込み上げてくる。
『楽、困ったことがあったら言ってくれ。俺は……いつもきみの幸せを願っているよ』
「幸せ……?」
『ああ。きみを幸せに出来なかった俺が言うのはおこがましいが、幸せにしたいと思っていたし、幸せになって欲しいと思っている。きみはもっと貪欲に自分の幸せを望んでいいんだよ』
ひと言、ふた言交わし、電話を切った。間際に遠くで子供の声が聞こえ、